top of page

​ 法話について

武家の屋敷を思わせる明達寺の正門

​法話について

​ 法話とは何でしょうか。何となく寺で聞く話くらいに思っていますが、例えば、講話、講演、演説とは違います。また、説教、説法なども、本当は正しい言葉とは云えないのです。これらはすべて、話す者が、知識、考え方などを、人に伝えるという意味ですが、法話は違います。法話は、話者の知識や、意図をも越えて、言わば「法」の真実が「語り出す」のです。人の思いがどうあれ、語られることによって、(仏教の)真実がおのずと現れ、聞こえてくる。そのような言葉と、時間でなければ、法話の意味はないのです。これは、色々な日常の感情、錯覚、その日の条件によって、難しいことではあります。法話とは、お天気のように、移ろいやすく、掴みにくく、世間的には、奇跡のようなものとも、云ってよいでしょう。しかし、その心の性質も共に、不思議を体験した人には、よく分かっていることです。

 暁烏敏が、清沢満之に出会って以来、日本近代の仏教の歴史に、一つの流れができました。それは、満之、敏の活動した塾に因んで「浩々洞系」などと、呼ばれることもありますが、実に多くの偉大な僧侶、学者、芸術家などを生み、影響を与えて来たのです。共通するものは、人間である限り持っている苦しみ、疑問、向き合う現実と、それを越える救済の力との、対話の縁起なのです。その真剣を、有りのままの言葉にすることで、この難しい人生を今、乗り越える。正にそのような時間を照らし出す、阿弥陀の真実の喜びを、自分の命の日々の拠り所とするのです。

 明達寺の本堂の演壇は、敏が使っていた当時の、同じものです。古くて重いのですが、代えられません。そこには、今お話ししたような、伝統の精神が、宿っているからです。住職は、皆それぞれであり、人間的なものですが、法話は、それを越えた真実が働き出る場であり、時間でなければなりません。難しいようでも、中心に無ければ、寺そのものの本来の意味がないのです。怠け者ながら、そのようなご縁として、できるだけお話しています。少しでも多くの方に、真実の光に触れて頂きたいと思います。                    (暁烏照夫)

 

about Sermon

BGM

bottom of page